1950〜60年代 豪(ごう)さんの大宮 1950年代後半から 1960年代前半 小学生 両親は伊勢出身。母親が薬剤師で 1937(昭和12)年新大宮商店街にイスズ薬局を開局した。 ※新大宮商店街は京都市の都市開発、区画整理事業で昭和の始めに生まれた。 道 遊び場でしたからね。けっこうこの辺まだ空き地もぎょーさんあったんですよね。舗装されてへんというか、道のね、だから当時は小学校入る前かな。舗装された道って、大宮通と堀川通ぐらいやな。新町通も舗装されていたかな。一歩はいると土道やから。子ども時分だったら、ビー玉が入るような穴をあけながら遊んだり。逆に大宮通みたいな舗装してあると、ろう石でね、絵が書きやすいとか、今みたいに車とか走ってへんから道落書きしたりとか、けんぱー遊びとかそういう遊びの方、線を引っ張ったりするにはちょうどええわけですよ。 大徳寺 今の総門の少し北の方の、藤原さんって石屋さんの所で道がクランク(直角のカーブが続く道路)なってて、そこの先の石垣が半分崩れしていて通れたんですよ。道も土でちょっと緩やかな坂で、遊びに行くときは全部ここ通るわけです。ちょうど鐘撞き堂(鐘楼)のところね。いまでこそ大徳寺のいろんな建物の周りには垣根ができてるけど、昔はそんなことなかって、どこでも入り放題やって。もちろん塔頭(たっちゅう)の中の庭園は入れんけど、ちょうど楼門(金毛閣)の下とか入れたし、楼門の両脇がね、高学年くらいなると、屋根の下に足をかける隙間があってですね。ちょうど人一人入れる。そこから階段を登って、上にも内緒で登れた。門の東西から「よーいどん」で、どっちが先に上に登れるかっていうのを餡パンを賭けて競争とかやってた。上には仏像が一杯あるんやけど、そこはヤバいと思ったのか一ぺんだけ。登るのは何べんもしたな。ここの高さは京都タワーと東寺の塔と同じだから見晴らしもいい。「絶景かな絶景かな」って感じで気分ええんですよ。昔はあの門も塗装が剥げていて、元の朱には塗ってなかった。僕らの中学校か高校の時分に修復されて朱赤になってた。 * そんな感じて大徳寺の中は、チャンバラごっこしたり、悪さするのにちょうどいいぞってね。池があって亀がいっぱいおるんですよ。それに石をぶつけるんですよ。いろいろあったな。織田信長の墓がある総見院(そうけんいん)があって、そこに墓場がある。かくれんぼするのにいいですよ。虫を捕るとかね。自然が残ってるし、広いし、遊び場になるし、街の中にも家が建ってないような空き地も結構あるし。『ドラえもん』の土管の世界…。泥遊びとかね。かしこまった公園の砂場よりも自分たちでそういうところ行って捕るほうがいい。今宮さんは小さい社(やしろ) が多くて空間としてあまりおもしろくない。大徳寺は全体が遊び場みたいな感じだった。ボール遊びとかは不向きなんだけど、かくれんぼとかちゃんばらごっこは向いてるね。 古本屋 / 商店街 二筋あがったところに、古本屋もある。今はない。今はレンタルといったら、保険証とか運転免許証とか身分証明書がいるけど、昔は、配給制やったから米穀通帳って証明証がわりするんですよ。それをうちの親に言ったら、「米穀通帳持って来いとか他人の家を詮索するような奴の所で本借りるな」って怒るんやな。結局お袋が顔見知りで本貸してもらえたけど。水木しげるとか、手塚治虫とか貸本屋専用の本とかもあったし、中には大人が借りにくるような本もあったかな。普通の本屋では『少年マガジン』と『少年サンデー』がでたのは小学校〜中学校くらいにかけて。それまでは『少年画報』『少年クラブ』『少年』とか月刊誌が本屋で売ってた。 * 貸本屋の隣がお菓子屋で、市場みたいなのがあった。お菓子屋の息子が小学校の同級生やった。うちの町内にはなんでかパチンコが3軒もあった。ここの角っこもパチンコ、下もパチンコ屋。向かいもパチンコ屋、そこから『お富さん』とか『お祭りマンボ』とか音楽が流れてきて、裏からは西陣織屋の織機の音で、にぎやかなところで育った。 (注釈) 米穀配給通帳は、1942(昭和 17)年以降、米の配給を受けるために発行されていた通帳。世帯主、住所が記載された公的文書のため、身分証明証としても用いられた。 『週刊少年マガジン』は講談社の、『週刊少年サンデー』は小学館の週刊少年漫画雑誌。どちらも 1959(昭和 34)年創刊。月刊少年漫画雑誌は、1914(大正3)年創刊の『少年倶楽部』が戦後『少年クラブ』と改名し、1962(昭和 37)年まで講談社から刊行された。 豪さんによると、当時の貸本は『月光仮面』、『少年ジェット』、『赤胴鈴之助』、「さいころコロ助』などがあったとのことである。 (注釈終わり) 駄菓子屋 / 路地 貸本屋の向かいに駄菓子屋さん。うちから一筋向こうにも駄菓子屋さん。背中合わせに。あと二筋ちょっと先にたこ焼き屋があった。チョコポッキーのような、ああいう味気のないカスカスのビスケットにチョコ味がついているみたいなね。あとアンズが何かで固めてあったんかな。小豆大ぐらいのちっさいちっさい粒に何かまぶしたお菓子が 10粒入っている袋とか。十円とかかな。百円はまだ玉やなくて札やった。そんなもんはめったにもらえない。お年玉ぐらい。駄菓子屋がみんなの溜まり場みたいな。 * 路地入ったところに、今でもこの辺りガレージみたいになってるんやけど、土の空き地やった。角っこに紙芝居屋が来るわけですよ。毎日来てたんちゃうかな。 商店街 一つ屋根の下に何件も売り場が集まってる市場が、うちの近くと復活幼稚園と鳳徳((ほうとく) 幼稚園のすぐ近くにも市場もあったし、近くの古本屋とお菓子屋の建物に、八百屋も入っているかな。普段の買い物はほとんど商店街です。ここは言うたら(西陣織の)織屋さんの織(おり) 子(こ) (織(おり) 工(こう) )さんたちや大徳寺の台所みたいな意味とかね。新大宮商店街っていうのは、もともと大宮通りはここ(北大路)までしかなかった。京都市の人口増と西陣織の産業がだんだん活況を呈して、こっから北が造成されたわけです。だから区画整理されている。僕らの子ども時代、昭和30年くらいのときが、一番織屋さんとかも元気やし、織屋さんで働く人も買い物に来はるし、新町の人も買い物に来はるし。商店数はこっちのほうが圧倒的に多い。織屋さんの人たちも買い物にくるし。今でこそコンビニとか生協とかあるけど北側の部分。産業大学(京都産業大学)とか、上賀茂神社の辺。さらに一山越えて市原あたりから来はる人も。一番北にある商店街やし。 薬局 この商店街は薬屋多かった。南から待鳳堂薬局、ダルマ薬局、うちがイスズ(薬局)で、田中薬局。さらに大野薬局っていう薬屋がある。日の丸薬局。やすらい薬局、桃ノ本薬局。昔は適配条例(適正配置規制)って薬屋は何メートル以内に建ててはいけないっていう条例があってちゃんとクリアしてる。ちょうど国民皆保険が始まる前くらい。処方箋じゃなしに、昔風のね。「ここは安売りしはるので有名や」、「ここのおじさんは親切や」、「ここの人は口先うまくいろんなものを売り付ける」とかね。それが好きで行きはる。「ここは漢方薬が有名、詳しい」とかね。母は薬剤師で、女の人がやってるのはうちのとこだけやったから、相談のってくれはるみたいなね。 (注釈) 薬局の適正配置規制は薬事法で定められ、条例で100メートルという基準が設けられていたが、1975(昭和50)年に法改正で廃止された。 1958(昭和33)年に国民健康保険法が制定、1961(昭和36)年に「国民皆保険」が実現する。 1954(昭和31)年に医師の処方箋発行を原則として義務付ける「医薬分業法」が施行されるが、医師が投薬をする慣行は続き、1992(平成4)年でも発行率は14%程度である。2020(令和2)年には75%を突破した。 (注釈終わり) おもちゃ屋 / 模型屋 おもちゃ屋さんもよーけありましたね。「だるまや」って最初はちいさい店やってんけどね。けっこう新しいものが充実していて、だんだん大きくなって、 80年代には任天堂のゲーム機の新機種とかも京都市内で手に入るのが早かったかな。子 どもの頃おもちゃ屋って、「だるまや」から50メートルほど南に一軒とうちの4軒下にもあった。 おもちゃ屋はブリキの車とか、トランプとかゲーム。ゲームって言ったって、ボードゲームとか。オセロはまだなくて、似たようなものとか。刀のおもちゃやピス トルとか、着せ替え人形とか。リカちゃんとか出る前。キューピーさんやら、ダッコちゃんが小学校3年くらいのときやったかな。うちの向かいの醤油屋の、二つ 下の子が欲しがって、そこらじゅうのおもちゃ屋についてまわったけど、売ってへんかった。 * プラモデルはまた別に模型屋さんってのがあって。うちの三筋下を東へ入ったところにも模型屋があって。それぞれ得意分野があった。北大路堀川のちょっと東。 プラモデルが出始めるが、たしか小学校2年、1956(昭和31)年前後くらいかな。 それまでは竹ひごで作ったり。だいたい最初買うのが模型飛行機、だんだんハマってくると、軍艦の木の模型。木片を積み重ねて作って、凝りだすと、ちょっとイカリ付けよ、とか窓付けよかなってなる。プラモデルが出始めると、めっちゃお金があるわけじゃないし。高いんですよ。10円の駄菓子買ってる時代に、一番 安いプラモデルで500円くらいする。 (注釈) オセロは類似のゲームが 19世紀にイギリスで考案されていたが、日本では 1970年頃に開発、その後発売された。 ダッコちゃんは 1960(昭和 35)年、リカちゃんは 1967(昭和 42)年発売。キューピーは大正時代から作られている。 日本で国産のプラモデルが発売されたのは 1956(昭和 31)年、1960年代にかけて軍艦や飛行機などが主であった。 (注釈終わり) 映画館 / 小学校 / 商店街 「大宮東映」って映画館が確かこの辺(寺ノ内あたり)にあった。大宮劇場っていう。ストリップ劇場は、御旅(今宮神社の御旅所)の西にあった。新大宮ができるまでは、大宮の鞍馬口から寺ノ内通あたり、今出川上がったへんが「あぐい」って呼ばれている商店街としては一番賑やかな地域で、この「あぐい」あたりに負けへんように、昭和の初期に生まれたばかりの新大宮商店街ががんばったって僕らの先代さんは言うてました。(映画館は)姉さんに連れられていってたけど、今とちがって常に満員、それも姉さんの好みやったから退屈で、あんまり行きたくなかった。小学校高学年くらいに河原町に怪獣映画とか行ったりしてたけど、そんなにしょっちゅうやなかった。必ず超満員で立ち見で、今みたいに座席指定とか無いからね。むしろ小学校で時々映画の上映会やってた。アニメとか喜劇とかあったり、夏の夜、小学校のグランドで上映会とかあったね。それで映画終わって消えるとしばらくすると、満点の星空。映画のあとに天の川を体感してた。 * あと朝鮮踊りっていう、太鼓たたいて、農楽みたいなのを伴奏にして、チマチョゴリとかを着て着飾ったひとたちが次々踊るっていうのが。月にいっぺんくらい商店街にきてたかな。今から考えたら、朝鮮への帰還キャンペーン(帰還事業)なんだけどね。僕の同級生にも夏休み済んだら、けーへん(来ない)子もいて。「同級生のみなさん、仲良くしてくれてありがとう」っていう手紙をお母さんが書いてて、先生が読んでくれた。小学校の1年、2年と同級生やった子かな。僕すごい仲良かったから。 (注釈) 在日朝鮮人の帰還事業は、朝鮮戦争(1950〜1953)後、主に 1950〜1960年代にかけて行われた、在日朝鮮人とその家族による、朝鮮民主主義人民共和国への集団的な帰国または移住である。 (注釈終わり) 商店街 隣の化粧品屋さんが商店街ではじめて自家用車買ったかな、お客さんを送り迎えしてお得意さんをふやしてた。あとは八百屋さんがオート三輪持ってたかなぁ。そんなに持ってなかったかな。この辺はたいがい賀茂のお百姓さんたちが売りに来るっていうか。それこそ 30年も前じゃないね。 * けんパー遊びは道端にライン引いてね。塗装した道やと。いろんな唄と一緒に遊ぶのがあったよね。「タンス、ナガモチ、どなたがほしい〜」みたいなのとか、「山の中のサンチュウで、武士という名のサムライが、馬から落ちてラクバして……」言葉あそびちゅーかね。 夜店 豪(ごう) 1のつく日に、北大路通りで夜店があった。 貴之(たかゆき) ありましたね。 豪 北大路通りの大宮から堀川くらい。北側の歩道の部分に夜店が出るわけですよ。一番最初のとこが植木、次は古本を売っていたり、次にベタ焼き(一銭焼き)とかたこ焼きとか。「あんなとこで買い食いしたらお腹壊す」とかいう親もいたけど。 貴之 親に連れられてよく行ってた。でも僕はお腹が弱かったので食べ物はダメって言われてたなぁ。堀川から大宮通、旧大宮通まで続いていたので、そのまま大徳寺の実家(アトリエの裏)まで行くとか。 玄武神社 / 御旅所 やすらい祭りは、ここだけじゃなくて、北大路堀川と大宮の間に玄武神社があって、そこと今宮神社と上賀茂神社の祭礼なんですよ。練(ね) り衆(しゅう) (花笠を先頭にした祭りの行列)っていうかね、玄武神社はこの(今宮下がる / 商店街の南側)界隈をまわらはる。今宮神社はこの辺(商店街の北側)をまわる。上賀茂神社だけちょっと日にちを変えてまわる。4月の第1日曜みたいな。傘の下に入ったら1年は無病息災ってことで。実際、同級生で鬼踊りの笛とか太鼓を担当した子がいますけど、僕はやったことない。5月になったら、今宮祭りで御神輿さんが通る。今宮神社の御(お) 旅(たび) 所(しょ) (祭礼で神様が休息する場所)、みんな「オタビ」と言うてた。今でこそ御旅飯店(中華料理屋)の方が目立つけど。そのときなったら、御神輿さんが今宮神社から5月5日に最初その、神さんが今宮神社から神輿に乗って御旅所に渡って来て、帰るのが一週間くらい後の日曜で、その間が縁日。サーカスとか見世物小屋もくる。 商店街 | 愛着のある場所 祭りといえばやすらい祭りと今宮祭りと地蔵盆。地蔵盆は各町内で、ひと町内っていうか、知らん町内もあるから 90人くらい、けっこういましたね。僕と同じ学年で6人くらいいて、それより下と上の団塊の世代やからちょっと多い。町内で仮装行事なんかもあったりして。カラオケじゃなしに、のど自慢大会とかやったりとか。ここは正式には上門前(かみもんぜん)町っていうんですけど、本上門前町、上門前町、新門前町…3つか4つくらいにわかれているんですよ。あんまりにも子どもが多く なりすぎて。 * 商店街は年末年始一番忙しい。クリスマスからお正月は結局掃除したり。大掃除ってのは、梅雨前か梅雨明けくらいに畳開けてね、ばんばんやるんですよ。掃除機が普及し始めてなくなってしまったけどね。確か学区あげて同時にやるんです。ここ水洗(便所)になったのが、1970(昭和 45)年。半世紀。それまで汲み取り式やったからね。その辺の電信柱に牛がつながれてね。どんなこぎれいなお店でも、トイレが一番奥にあって、汲み出して天秤棒で担いで、毎週か2週に1度、賀茂のお百姓さんが汲み取りに来はって。肥料のお礼に大根くれたりとか。それがいつしか、バキュームカーに変わったけど、それまではたいがい、肥え樽を積んだ大八車を牛に引かせてね。 * それで年末年始は店の掃除とか、家の中よりも商売関係のメインで手伝いさせられたりとか。拭き掃除とか掃き掃除とかが中心だった。昔は掃き掃除をする前にお茶っ葉をまくんです。ほこりを吸ってくれたり、お茶の匂いがしたり。それで注連飾りをして。ちょうど二軒隣が餅屋で、クリスマスを過ぎると餅つきをはじめるんです。それがまたどしんどしんやかましいんですよ。今は機械でやってるけどね。どーん、どーん、どーんってね。うちの親父が「うるせー」って機嫌悪くなって。だけど餅は買ってきて正月準備して。うちは商売してたから御節料理どうのこうのって感じではなかったね。ある程度はあったけど。お袋が店やって親父は公務員(区役所)だったからね。 正月は今みたいに、元旦から空いてる店なんかない。スーパーだってあらへんし。 うちの向かいは最初はパチンコ屋で、次に麻雀屋、その次は電気屋やってんけど、電気屋に年始に初荷(はつに)いうのが来るの。松下電気やらなんやらのトラックがどーん ときて、前で法被(はっぴ) きたパナソニックや松下電器の人が、「平和電気さん、ばんざーいばんざーい」って電気屋の前でするんですよ。 * 正月っていうと、僕らはお年玉もうて楽しみやったんやけど。正月や年末年始しか売ってないもの。お餅にしろ、締め飾りにしろ、お花とか、仕出し屋さんやったら当て込んで出汁巻売ったりとか。靴屋洋服屋、どこでもね。うちは医者が休みやからね、胃腸薬とか風邪薬とか(準備)はするんですけどね。年始から戸叩いて「おなかこわしたんですけど」って来る人は職業柄いましたけども、年末ほど忙しくはない。のんびりはしてた。年始は向かいとちょっと離れたところにも一軒、電気屋さんがあって、初荷が賑やかやった。ラーメン屋、うどん屋は「晦日そば」を出したりね。商店街のご近所、こっちの並びは上 (北 )のほうから、毛糸屋さんで、餅屋さん、餅屋が一番年末忙しいよね。その隣が化粧品屋で、次がうち、うちの南隣は稲田さんという、お茶、豆、雑穀、砂糖などの量り売りの店、で、果物屋、文房具屋、おもちゃ屋、洋品店、手芸屋。向かいは北から、中華ソバと喫茶の「サカイ」、履物屋、パチンコ屋、酒屋、古本屋があって、糸とボタン屋の専門店、その隣が元・古道具屋やったカバン屋さんで。次がうどん屋「はれま」、その隣がまたパチンコ屋。「はれま」さん、今は四条のほうへ行って「じゃこ山椒」で有名になってるけれど。ここは親父さんが作るうどんは出汁がおいしかった。そういえばイタリア料理の「フクムラ」の創業も、もとはこの新大宮商店街。 (注釈) 豪さんによると、世帯数が増えたため町内が分かれ、町内ごとに寄付金を集めて祠を作りお地蔵さんが祀られた。地蔵盆のためにお地蔵さんを借りてくる町内もあった。 松下電器産業(現パナソニック)では、正月明けの商品出荷を「初荷」として販売店向けに従業員総出で行っていた。昭和の大恐慌により在庫が溢れたため 1931(昭和6)年の正月から始まり、交通事情悪化のため、 1965(昭和 40)年以降は中止となった。 稲田さんでは、お茶、お豆、砂糖、ざらめ、氷砂糖など量り売りのものが売られていたとのことである。 リストランテフクムラは、1973(昭和 48)年にオープン。京都にイタリアンが根付くきっかけとなったと言われている。富小路四条上ルの店舗は 2016(平成 28)年に閉店している。 (注釈終わり) 大丸 / 高島屋 /丸物(まるぶつ) 百貨店、大丸とか高島屋、京都駅前の丸物(大正時代創業、後の近鉄百貨店)みたいなとこは何しに行ったんやろう。上の食堂やデパ地下行ったりとかかなぁ。中心街に一人で行くことはほとんどなかった。高校生ころからは友だちと映画見に行ったりとか河原町のほうへも行ったけど、小さい時は、デパートは親に連れられていってた。母さん何買ってたかな。うちのおふくろって店してるから、デパ地下行って今晩のおかずとかを買ってくるとかは、あったな。 * デパ地下の食べ物ではないけど、初めて食べたもの全部覚えてる。初めてポテトサラダ、餃子、鉄火巻を食べた日、プリンを食べた日とかね。そういうのって克明に覚えてる。小中学校くらいまではこのへん(大宮)でね、高校生ぐらいになってくると生活圏が河原町あたりへ広がって、映画とかね。市電もだけど自転車ね。どこでも自転車やったな。 本屋 貴之(たかゆき) 大宮通で古本屋じゃなくて普通の本屋はどの辺にありました? 豪(ごう)  商店街のなかではね、「面白屋書店」ってのがあった。六間通り (今宮通り )の信号上がったところ。あんまたいした本は置いてないんやけどね。最後閉めはるときは、美容院に女性誌とか週刊誌を届けたりしてた。このちょっと上に、ツキヤ書店ってのがあって、教科書とか学校通じて販売してて、それで儲けてはった。ここの商店街の本屋はこの2つだけ。あと北大路、大谷大学のところに大垣書店。いまでこそものすごいチェーン店やけど。角から3軒目。いま牛丼屋になっているところが最初の大垣書店。今、学習塾になってるあの建物は、はじめは京信(京都信用金庫)やって。そのビルを大垣が買って、だんだん大きくなった。その手前、烏丸と新町の間、今の立命館小学校 (以前は中学校 )の向かいにもう一箇所。なんとか誠文堂というのがあって。そこの本屋さんの方が品揃えとセンスがよかった。 貴之 北大路新町の東南角にももう一つ漫画とか雑誌を置いているような本屋があったように思うのですが。 豪  あったかもしれないけど、新町の街並みって記憶にない。高校んときに、読者感想文コンクールで東京に行って、谷川俊太郎のお父さん(全国図書館協議会の会長・谷川徹三)から会長賞の賞状もらった。大江健三郎の本で。高校の先生が面白いよって、大江健三郎にはまったわけですよ。学校で習うのは夏目漱石や芥川龍之介とか古い人。当時大江健三郎は若手作家だった。こういう本は商店街では買えへんから、その誠文堂書店 (1980年代には無くなっていた )は取り揃えてたからね。北大路新町を東行ったところ。 貴之 大江健三郎は僕も読んでたなぁ。朗読とか、点字で。 商店街 / 楽器屋 豪  買いもんとかね。「あれ買うてきてくれ」とか「これ買うてきてくれ」とか親父やったらタバコ買うてきてくれとかね。さすがに高校ぐらいになったら、自分が吸うのと間違われるさかいに。銭湯も多かった。裏にも銭湯、下にも銭湯、上にも銭湯。織屋さんの織子(織工)さんたちの福利厚生施設というか。散髪屋さんも多かったなぁ。今みたいに長髪とかやったらあかんし、月にいっぺんは行くでしょ。切りながらおやじがべちゃくちゃ話しかけてくるのがいやで。だけどお姉さんが髪切ったり髭剃ってくれたりするときは、わりかし機嫌がいいんやけど。楽器以外はなんでもあった。楽器は買えへんかったな。 貴之 楽器屋なかったですっけ? 豪  ここの商店街、楽器はなかったんですよ。レコード屋はあるんやけど。 貴之 大宮の若菜通りのうちのアトリエに曲がるところ。レコード屋さんのところか。 豪  中村屋さんっていうレコード屋さんね。もとは今宮通の堀川を西に入ったとこにあった。 貴之 そこ楽器置いてたと思う。 豪  いや、ないなぁ。楽器は。 貴之 なんかギター買った覚えがある。中学の時かな。レコード屋さんの前。 豪  中村屋のレコードの隣が化粧品屋さん。楽器やったけな? 貴之 レコード屋さんの前のお店が楽器屋さんだったんです。そこで安物のクラシックギターを買ってもらった。同じ並びにあった、ギター教室に3回行って止めてしまった。 豪  質屋にあるときはあるんやけど。ちゃんとした楽器屋は記憶にないねんなぁ。僕も中学校のときからギター弾いてるから。中学校のときにベンチャーズとか流行って、光島さんはもうちょっと後やね。エレキギターは買えへんかったから、クラシックギターを弾いてましたね。 貴之 ギターマイクとか付けてた? 豪  そんなんは付けずに、生音でやってましたね。 貴之 エレキギターは買えなくて、クラシックギターにスチール弦を張ってギターマイクを入れてそれを小さなアンプにつないでました。盲学校の中学部の時、グループサウンドのコピーバンドのようなことをやってたなぁ。 豪  高校のときは自分で作詞作曲してましたね。 貴之 ギターそのときどこで買ってました? 豪  姉さんからもらった。それで作曲してて、ちゃんとしたフォークギターを買ったのは、河原町丸太町にあった「キカメヤ」。1969(昭和 44)年に夏休みアルバイトして 18000円の。クラシックギターはナイロン弦で、フォークギターはスチール弦で。 貴之 僕はフォークギターにスチール弦を張ってたりしてた。 紫野高校 豪  ほとんど盲学校と交流ないんですよね。紫野高校のグラウンドと盲学校のグラウンド背中あわせなんやけど、全然。敷地も入ったことない。 貴之 盲人野球のボールが向こうのグラウンドにはいって投げ返してもらったりとかはしてた。 豪  僕も一回、あそこの畑の足を踏み入れた記憶もあるけど、それ以外は全然ない。 貴之 紫野高校で教えてた先生が、盲学校にもきてた。 旭ヶ丘中 けっこう早足で登校してたから遅刻しそうになっても 15分くらいで行ってた。今やったら 30分かかる。ものすごい坂道で。近道が一番急。中学校の西、ここは今は住宅が建ってる。この辺はほとんど田んぼと畑やった。 火の見櫓(やぐら) 今はなくなってるけど消防署(北消防署)があって、ちゃんとしたコンクリートの火の見櫓があった。そこにおねがいしたら、上らせてくれる。だから、そこに小学校のときなんべんか登った記憶がある。5階建てくらい。けっこう一望できたって感じ。この地域で一番高い建物やったからね。大徳寺の楼門は別にして。使われなくなってそのまま置いてあったけれども。消防自動車が好きな子も多かったね。大徳寺のところには大徳寺消防署があった。 船岡山 / 左大文字 旭ヶ丘中も、東山の方も一望ですよ。船岡山も登った。船岡山から大文字上にね、小学校の一時期は凝ってたことあって。校区から冒険してみよっていろいろ行ってみる。「船岡山行ってみよか」とか「左大文字登って、裏側行ってみよか」って言って。(左大文字山の)裏側は穴ぼこだらけで。マンガンの鉱山なんですよ。それにトロッコがあって、乗ってみたくていたずらして怒られた。佛大(佛教大学)の裏にあって、登ってこっちにおりてきて、当時は「しょうざん」(日本建築・庭園のリゾート施設)が工事中で竜宮城みたいやった。そういうふうにしながら、だんだん活動エリアを広げてく。建勲神社のバス停近くに今川焼きの店あって、太鼓まんじゅう( = 今川焼き)ここで買って大文字山登って食べて帰ってくる。