1950〜1960年代 貴之(たかゆき)さんの堀川 1957〜1966(昭和32〜41)年頃 幼稚園〜小学生 北大路堀川近く、若菜通りに面した親戚の家に両親が住み、そこで生まれ育つ。中学からアトリエみつしまの裏である父親の実家に住む。 家 / おばあちゃんの家 アトリエから若菜通りずっと東に行って、大宮越えて、堀川通りを越えて、若菜通りに面している角(かど)から東に2軒目、北側。 * おばあちゃんがいたのが、ちょうど、裏庭を通って行けるような、ここ(アトリエ)と位置関係が一緒なんやけどね。堀川通りに面して、若菜通りから2軒目。相川(あいかわ)さん。母方のおばあちゃんとおじいちゃんが居た。その家と僕が住んでいた家が裏庭でつながっていて、行き来できるようになってた。だからうちの母親のお母さんとお父さんと住んでいたかんじで。反物を扱っていたり、和裁をしていた。けっこう子守してもらっていた。おばあちゃんによく遊んでもらっていた覚えがあるので。夜泣きをしてたみたいで、おぶってもらって、町内一周ぐるってするとか。3歳くらいかな。ちっちゃいころ。後から「よく泣く子やった」って言われてそういうふうなイメージがあるかもしれない。 * 割と庭が面積あって、真ん中に木が植わっているような。子どもからするとジャングルのように植わっていて、ちょっと細い道に。歩けるけど蛇でも出てきそうな、ちょっと怖いようなところがあったのと、飛び石がずっとあって、沿っていくとおばあちゃんちにいける。庭に面して小屋があったりしたので、大きい。家一件建つくらいかもしれません。三輪車に乗って移動できるくらい。(アトリエの)坪庭くらいのが、若菜通り、表の通りに面した辺りにもありました。居住空間よりも庭のほうが大きかったような。昔はそんなもんだったんかもしれない。なんでそこに(家を)借りたのか、親戚同士の関係だったのかもしれないけど。木造の二階建てでした。 * 若菜通りに面して、コンクリートが下の方にある板張りの塀。それを堀川通りからは通り過ぎたところに、入り口があるんですけど、今よりかはちょっと高めの階段、多分2段か3段あって家に入っていく感じ。奥の庭まで土間で通り抜けれるようになっていて、その庭の左手にずっと住居がある。手前の板張りの塀の裏側くらいに細い土間、というか通路があって、そこを行くと表側の坪庭に行ける。だからまず入ったら通路があって、その次に玄関。今でいう、ちゃんとした畳の 四畳半くらいの玄関。玄関の奥、庭に沿ってちょっと細い、畳2枚分くらいの繋がった部屋というよりは通路のような。その奥に、台所みたいな感じの部屋があって。まあ奥に長い。その奥に、お風呂とかトイレとかあって、抜けると大きい裏庭に出る感じ。それに並んで左側、家の西側に六畳くらいの部屋が2つ。六畳の部屋の、若菜通り側の部屋が坪庭に面していて、いわゆる縁側だった。2つ目の六畳の部屋の北側というか裏庭に面したところにも縁側があって、そこによく座っていた覚えがある。足ぶらぶらしているだけで楽しいみたいな。その座っているところが裏庭で、大きい石があって。足あげたら登れるくらいの細長い石。一応庭の石みたいな。それが見えるとこにあって、遊んだりしていた。そこの縁側からおりて、左の方、堀川通りのほうに行くとおばあちゃんの家に行ける。それがよかったのかもしれない。とにかく庭で、三輪車乗り回して遊んでいた。踏石というか飛び石があるので、三輪車を邪魔する…。木が植わってて、真ん中の木の北側に踏石のないスペースもあって、中西さん(大叔母)の方に行ける。そこに並んで小屋があったような気がするから。若菜通りから2軒分くらいあるのかな。あと若菜通りの家の周りは土の道でした。堀川通も、たしか真ん中だけがアスファルトでその両脇は土の道の覚えがある。 中西さんの家 もうひとつ裏庭とつながっているところがあって、相川さんの北隣。中西さんっていう、おばあちゃんの妹、大叔母さんってことかな、住んでいた家があって。そこも一応木戸がありながらも裏庭で繋がっている。常時行き来するのは、おばあちゃんの方ですね。中西さんはちょっと距離がある。ときどき挨拶する感じかな。 堀川市場 / パン屋 近くの買い物に付いて行ったりしてました。堀川通りに出て、まっすぐ南にいくと北大路堀川。北大路通をわたって、東側の角。今は塾とかなっているけど、そこが堀川市場かな。いろんなお店が入っている昔の市場です。 * 市場の東側にパン屋があった。メロンパンじゃなくて、サンライス。今の丸い系で砂糖がふりかけてあって、ざらざらした感じのじゃなくて、今とちがう形のメロンパン。メロンパンとどっちも好きやったけど、サンライスをよく食べていたなぁ。デンマークロールというのもあったなぁ。食パンとかも。角っこに大きい市場があって、その次にパン屋があって、復活幼稚園があって。その間になにがあるかはわからへんけど、並びとしてはそう。市場はけっこう母親に連れられていってた。パン屋さんもそうやけど。 * もう一軒パン屋さんがあったな。家の近く。堀川通に面して御所田郵便局が今もあるけど、もうちょっと家の方。若菜通りの間ぐらい、郵便局との並びに2、3件南くらいかな。ちょっと駄菓子屋さんぽい感じで、そっちの方がよく行ってたかな。市場の方は本格的な気もする。買い物に一緒に連れて行ってもらえるのが楽しみやった。奥の方に魚屋さんがあって、入ったところは八百屋さんやったかな。ぐるっと一周みたいな感じでした。なんでもあったので、一周したらいろんなもの、お菓子も売ってたかな。魚屋さんの匂いを覚えてますよね。 (注釈)メロンパンは元々「サンライズ」もしくは「サンライス」という名前で、戦前、朝日をイメージして神戸のパン屋で作られたという説がある。瓜のような細長い形であり、西日本での呼び名。 駄菓子屋さん / 洋館 堀川通りの中西さんは角から三軒目、多分四軒目にオオタさんって人がいて。わりと狭い駄菓子屋さんがあった。そんなに行ってはない。名前はあったかもしれないけど覚えてない。その並び、通り越えたくらいに銭湯があった。今ガソリンスタンドがある辺りかな。おばあちゃんの相川さんの家の向いあたり、堀川通り挟んで西側に洋風な建物があっていまだに何だったかわからない。洋館の窓が丸になっていて、ちょっとだけ見えていて。旅館だったのか、入ったこともないし、そんな見えてたわけでもないので全体像がよくわかんないけど、窓がちょっと光っているというか白っぽくみえてたような。 遊園地 / 鳳徳(ほうとく)幼稚園 新町。家の前の若菜通りをでて、うちの家の東隣がサコダさんっていう家。もう一軒あったと思う。ちょっと細い路地が北に抜ける南北にずっとあるんですけど。ちょっとだけ細い、南から下に。南から北へ南から割と狭い。北に向かう時に坂道になっている道ですけど、ずっと北に1本抜けて右に曲がる。しばらく東に行くと油小路。油小路を左に曲がって北に行くと、右手に遊園地があるイメージです。公園(紫野柳公園)というか遊園地って言ってた。シーソーがあったり、滑り台があったり、水飲み場があるような。そこをまだ北にいって、どっかを右に入るんですけど。たぶん今宮通りに入る前、昔は今宮通りのこと六軒通りって言ってて、六軒通りに出る前の道に鳳徳幼稚園があったんですけど。僕が卒園したくらいになくなっちゃった。油小路からは右に入ってまた左にはいってみたいな感じ。たぶん、2、3本か4本か。ずっといくと今宮通で、越えてないと思うんやけどね。まだまだ土の道で、行くまでに焚き火してはったりとか、サザンカが咲いていたりとか。聞いた話ですが。 * 当時は映画じゃなくて、幻燈会みたいな、いわゆる映像を観るようなことがあって、僕は見えないから前の方に座らしてもらうのが、ちょっと特別扱いをされていて嫌だった。当時からかなり見えにくかった。サザンカが咲いているみたいなことも自分では見えない状態。人がぼんやり輪郭のようなものがわかるような視力。0.01とか。光は見えるので、明るいとか暗いとかで判断はできていた。映画やテレビみたいなものも、家にはテレビが来たのは小学校の1年くらい。かなり近づかないと白黒の映像が見えない。幼稚園でもそんなんで、前にいって見せてもらっていた。キリスト系の幼稚園だったので、クリスマスか学芸会の芝居や劇 で役をもらって出たと思うんですけど。なんか黒い服を着せられて、金の延棒みたいなのがでてくるような、キリスト誕生とかの話かな。役割を与えられて話したかも覚えてないけど。2年間くらい通ったんですかね。 新町の市場 堀川北大路のところと、もうひとつ。北大路の新町のところにも市場があったんですよね。たぶん北大路通りと新町の交差点の西南。新町の市場はいつも行くわけではなくて。同じような、もうちょっと大きかったかもしれないですね。新町通は南北の通りですが、商店街で、大宮通りと新町通がにぎやかだったんです。そこの角っこにあった市場でした。 柏井眼科 / お菓子屋 目が悪かったから眼科によくいってた。眼科にいく道が、若菜通り出て左で、東の方にずっといくと新町通りにでます。そのまま北大路通に合流して、南側をずっと歩いていくと、室町通りの手前ぐらいかな。柏井眼科っていうところ。幼稚園のころから定期的に通ってました。位置は今もおんなじ。おじいさんの先生と息子さんと両方に診てもらっていたかな。そのちょっと手前にお菓子屋さんがあった。かしこく眼科に行ったら、そこでいつもお菓子を買ってもらった。目を洗うとかそんなことやったんですけど。マーブルチョコレート、ロッテの板チョコや、カバヤとかも買ってもらってた気がする。 (注釈)マーブルチョコレートは 1961(昭和36)年、貴之さんが3、4歳の頃に発売された。当時チョコレートといえば板チョコであった。表面が大理石(marble)に似ていること、形がおはじき(marble)に似ていることからマーブルチョコと命名された。 カバヤ食品は岡山のお菓子メーカー、水飴、キャラメル製造からスタートし、当時はガムやチョコレートも発売している頃であった。 盲学校の小学部 学区的には鳳徳小学校で、親に連れられて「こんなところやで」って運動場とか行ったこともあったんですが、目が見えないから実際行くことになったのは、千本北大路の京都府立盲学校の小学部。バスで行くルートと市電で行くルートがあるんですけど、簡単なルートは北大路堀川で市電に乗って、大徳寺、船岡公園、千本北大路で下りて、北に向かう千本通りが今は大きいですけど、当時はもっと細い道。それもやっぱり土の道で車が石ころを弾き飛ばして走っていたのを覚えている。そこを行くと佛教大学あるんですけど、向かい側に大徳寺校舎という盲学校の小学部があるんです。 * 「南木ノ畑町(みなみこのはたちょう) 」というバス停のところ。向かい側のちょっと南あたり。並びでいうと紫野高校のグランドのところの西側。今宮通りの南で、千本通の東の角。入り口はちょっと下がったところ。電車で行って歩いてそこまで行く。通えなかったら寄宿舎に入ることになっていた。 80%くらいが寄宿舎だった、って言っても1学年が 10人以下ですから。市電もバスもめっちゃ便利。わりと道も綺麗やし。 * どっちも好きやったんですけど、帰りはバスに乗ってたんです。1本で帰ってこられるけどちょっと遠回りになる。行きしは市電でいって、帰りは「南木ノ畑町」から市バスに乗ります。「玄(げん) 琢(たく) 下(した) 」のほうへぐ〜と行く、今でいうと1番。鷹峰(たかがみね)の方に向かって西の方へバスが走る。鷹峯通りってとこかな、「南木ノ畑町」から、西の方か北の方へ向かっていくと突き当りが源光庵ってところを右に曲がって、「釈迦谷」とか、「玄琢下」を東に曲がって、泉堂町(せんどうちょう) の「十二間通(じゅうにけんどおり) (今の北山通)」に出る。そっからどうしたんか覚えてないけどぐるっと回って、新町通を走っていたのか、堀川通りを下がるルートなのか。北大路通に面した北大路新町というわりと家に近いところまでバスが来るんです。「釈迦谷」から「玄琢下」が狭い道(玄琢道)で、窓を開けてたから枝が当たって葉っぱが擦れ合う。そういうルートのバスが好きやった。 * もちろん母親とかおじいさんに連れて行ってもらってたんやけど。送り迎えしてもらってたから一緒に乗ってバス旅行みたいな。ちょっと時間がかかるけど。相川のおじいさんがわりと元気やって。自転車の前によく乗せてくれた。小学生の低学年のころは、迎えにきてくれて、乗せてもらって帰るんですけど、僕が「どっか行きたい」とか行ったら、上賀茂神社のほうにまわったりとかね、一回下鴨神社にも行った気がする。上賀茂橋とか西賀茂とかね。そのへんを自転車で走って。 おじいさんは、40代か50代くらいやったかな。呉服屋さんの仕事をしていて、そんな忙しそうじゃない感じ。怖いおじいさんで、おやつとかは買ってくれへんけど、いろんなところに連れて行ってくれていた。小学校2、3年くらい、4年ぐらいになったら無理やろな。だからその辺で行動範囲が広がってた気がする。 (自転車では)玄琢のほうにはあまり行かないけど。小学校が一番高い位置にあって、そこから下っていくから。でも西賀茂いくときは登る。(おじいさんは)元気やったんやろな。 * 盲学校行くんが嫌やったんかもやけど。当時は給食の好き嫌いが多くって、いろいろアレルギー反応とか、潰瘍性大腸炎とかで、下痢をすごいしてたりとか。1、2年生くらいかな。拒否反応を示していたんかもしれない。 (注釈)京都府立盲学校は、1878(明治11)年に日本で最初の盲唖学校として上京区に設立。後に聾学校と分離し、1937(昭和12)年に千本北大路南側に移転。1953(昭和28)年に幼稚部、小学部、中学部は現在の位置に移転した。 三宅八幡 もうちょっと遠出したのは幼稚園か小学校のときに、父親と母親もいたかな、癇が強い子やって。癇虫と(かんのむし) いうか、泣いたり、キーってなったり。その癇虫を封じるっていうのが、宝ヶ池のほうにある三宅八幡の神社。市電で出町柳まで行って、叡山(えいざん) 電車乗って三宅八幡へ行って、お参りをして、鳩団子(鳩もち)を買ってもらうという。わりと父親の役割やったみたい。会社員やったから、土日の休みの日に子守りを兼ねてみたいな感じやったんやと思う。電車乗るの好きでしたね。乗ってどこですれ違うとか、駅の順番を覚えるとかすごい好きやったみたいです。父親も積極的にそういうことを教えてくれていて。駅の名前とか、ここで電車がすれ違うようになったりするんかな。単線やったんかな、とか。叡電は市電と違って郊外電車って感じかな。 八瀬公園 叡電で行けたのかな。八瀬公園(八瀬遊園)で自衛隊の戦車とか飛行機とかが展示されていたり、それに乗ってみたりできる博覧会みたいなのに行った記憶がある。プールとか。植物園もそうやけど、アメリカ軍の進駐でしたね。そういう跡地が広いところが残っているのが接収されていたりしてたね。 (注釈)1961(昭和 36)年に、八瀬で「新世紀京都博」が京都新聞社主催で開催された。その跡地に八瀬遊園が1964(昭和39)年に京都市内唯一の遊園地として開園する。昭和40年代はプールの客で賑わった。 1983(昭和58)年に閉園する。 1945(昭和20)年9月にアメリカ軍の進駐が始まる。四条烏丸に司令部が置かれ、市内の個人住宅が接収され、京都市植物園にも米軍住宅が建設された。 大丸 デパートは父親に連れられて行ってたと思います。だいたい大丸行くのは、大晦日前の大掃除のときに子どもが邪魔で、父親もあまり掃除が好きじゃなかったとか知らんけど、そういうときに大丸に連れられて。父親が好きな鰻丼を食べて、みたいな。ちょっと屋上で遊んだりしてたような気がする。別にデパート行きたいわけでもなかったんやろけど、行ってましたね。大宮通りがにぎやかだったからわざわざ大丸行かなくてもいろんなもの買える。 船岡山 / お墓 / 今宮神社 船岡山は散歩的な感じ。今よりはイベントがあったのかもしれない。ちょっとした音楽堂や、青年の家みたいなのがあったりして、行ってないですけど。船岡山にはときどき行ってましたね。今宮神社とは違って山登るみたいな感じでそれも楽しかったのかな。 * あとは、なんといっても今宮神社の炙り餅。お墓が盲学校の小学部のところの今宮通りから降りていく、東の方に行ったところにお寺が多分ある。来光寺になるんですけど、今宮通りをはさんで北の方にお墓があって、家から歩いてましたね。若菜通りからずっとアトリエの前を通って、大徳寺入って、中の道をずっと西に抜けて、今宮通りをちょっと北にいって、今宮神社の前にでるとそこをまた左、西に向かってちょっと登っていくとお墓。そのお墓の帰り、今宮神社戻ってきて中を抜けて、炙り餅屋さん。お墓参りいった流れで炙り餅を食べるのが恒例の。それを楽しみに。 父親の実家 / 工場 お墓に行く途中に父親の実家があって寄ったりしてたかな。今は切断されているんですけど、この裏がアトリエとつながっていて、中学から引っ越して住み始める。ここ(アトリエ)も昔は高垣織物っていう父親の姉、伯母さんとご主人でやってた西陣織のところだったので、その裏続きで父親の実家で、遊びにくることもありました。工場だからウロウロしてたら怒られていました。正月とかに、ここ(アトリエ)の2階で、8畳のところ(奥の和室)で豪華なおせち料理とかいただいて。けっこうお金持ちだったんですよね。昭和40年代かな、儲けてはった時代。数の子が美味しくて「もっと欲しい」とか言って食べて、あとで親に怒られたり する。正月に挨拶する感じ。当時は法事とか、親戚関係の(行事)はみんなで集まってご飯を食べるみたいなことだった。四十九日までの間に初七日とか1週間ごとに集まって食べたりするので、こっちの実家の方にも来てた覚えがある。広い座敷は、着物の展示や販売であとから出来てるから。奥の部屋が住まいにしてたところ。 ちっちゃいときはご飯食べられるって喜んで行ってたように思います。 (注釈)西陣織の生産量が最も多かったのは、昭和40年代で昭和50(1975)年にピークに達する。当時の職人は2万人を超えていた。 家の前 | 愛着のある場所 堀川の方に住んでいた幼稚園の頃かな。家の前が土の道だったときは、家に入る階段を2段くらい降りると土の道やった。そこで泥んこ遊びをしてた。座り込んで、水持ってきて撒いて、土で山作ったり、トンネル作ったりする。車がまだまだ少ないときでしたからね。幼稚園から帰っての時間かな。遊んでるとちょうど、西日、夕焼けがみえる感じで。夕焼けとかそういう光とかは見えてたんで。土遊び、泥んこ遊びをしてたのがすごい残ってますね。「早く、ご飯やから」って呼ばれてみたいな。土の匂い、手触り、カーとした夕焼けの感じを覚えてます。いい感じのところ。 京大病院 小学校2年の 12月ごろから3月くらいまで目の手術をするので京大病院に入院する。大がかりな緑内障の手術で。2年生の後半は京大病院で過ごした。親としては手術したらよくなるかと思って、5〜6回。左右合わせると10回くらい。結果的には良くならなかった。むしろ悪くなったかもしれない。病院での生活は楽しいことも、嫌なこともあり。癇虫、(かんのむし) 癇癪を起こしてぎゃーと泣き叫んでオモチャをひっくり返したり。京大病院やから家からはタクシーで行ったりしてた。家に帰れることもあったけど、ほとんど入院生活だった。病院の1階にコーヒーの匂いがしているところがあって。喫茶店かな。すごいいい匂いするから飲みたいって言ってたけど、まだ子どもやし、コーヒー飲むと眼圧が上がるとか言われて、飲ましてもらえへんから。その反動で今コーヒーすごい飲んでいるのかもしれない。匂いの記憶がすごいあって。 あと、女の人の部屋に母親が付き添ってくれて入ってたけど、男の人の病室で僕と遊んでくれる20過ぎぐらいのお兄さんがいたり、その人が呼んできた中学生くらいのお姉さんがいたりして、一緒に野球の真似事とかして遊んでいた。病院の階段を探検したり。ボールはないからタオルをまとめてゴムで留めて。バットは ないから手で打ってたかな。雪も降って、三八豪雪。屋上にも雪が積もったりしていた。手術はほんまに嫌がって叫んでました。遊んでもらってたのが、すごい楽しかったですね。 (注釈)三八豪雪は、1962(昭和37)年12月末から1963(昭和38)年2月始めまで、約1か月の間広範囲で起こった雪害である。 林 貴之(たかゆき) 若菜通りで、大宮から堀川までの間で、まだ質屋さん(飯田質店)がありますよね。 あのちょっと南、北大路寄りの、林というか木がいっぱいあるスペースってなん かありました?いつの間にか住宅になってたんやけど、空き地の林みたいな。 豪(ごう)  若菜通りの南側? 貴之 そう、猪熊と。 豪  ああ!あそこはね、今の北図書館あるでしょ、昔、電電公社(NTTの前身)やった。 電電公社の裏側。同級生が住んでたけど。お寺(宝泉院)はありますよね。 貴之 その北側くらい。 豪  たしかにあの辺は空き地があったことありますよね。 * 貴之 木の葉っぱの音がしてたなっていう印象です。 自転車屋 北大路堀川、市場の反対側、西南。あの辺りに自転車さんがずっと昔からあって、自転車がよーけ置いてあったりして、そこで自転車買ってもらったりしたことある。割と最近まで自転車屋さんやってはった。自転車買ってもらったけど結局乗れなかって。補助輪付けては乗れてたんですけど、見えなくて乗ってないから危ないって親に付いてもらって。最終的には補助輪外すんですけど、やっぱり外したらうまく乗れなくてもうそれでやめてしまったかな。危ないし。僕がいたところは車が通るようなところやし無理でしたけど、ちょっと田舎で車の少ないところやったら「乗り回してた」って人いましたね。そんなんで自転車買ってもらったのに最終的に乗りこなせなかったなっていうのがあるかな。まぁ弟が乗った。 ライトハウス | 高校生 元々は今(千本北大路)より西の方にちいさい点字図書館やテープの朗読のライブラリがあって、それが高校生ぐらいのころかな、発展して今のライトハウスになっている。点字図書やテープの図書を借りて帰ってまた返してってしてました。あるいは大阪とか東京とかに大きいライブラリがあって、郵送で送ってくれたりする。盲学校の中にも点字図書の図書室はあったんですけど、それより多くの書物とかテープとかを読める。もちろん限られたものしかないし、当時はリクエストしてテープにしてもらう、ということはそんなにできなかったんですけど。テープっていってもカセットテープじゃなくてオープンリール。ぐるぐる回るやつ。 * 大谷大学を卒業してからわかったのですが、大宮通の商店街にあった電気屋さん(寺田電気)の店長がライトハウスの朗読ボランティアをやっていて、その人が朗読した哲学書『ツァラトゥストラはかく語りき』を高校時代に聴いていたんです。10何巻もあって。誰かが読みたいと思っていたのかな。 [生活圏] 東は室町辺りの眼科。北は鳳徳幼稚園、今宮通り辺りですね。南は北大路通りかな。ずっと北大路通ひっぱって、盲学校行ってたときのこともいれると千本通あたりまで。そっから北の盲学校の小学校があるくらいでぐるっと、今宮通りやから一周するくらい、が生活圏。お楽しみで玄(げん) 琢(たく) 下(した) 行ったりとか上賀茂へ行ったりとかはありますけど小旅行的で、日常的な生活圏でいうとそんな感じ。盲学校へ行くようになって、西の端は千本の方まで広 がったという感じ。