1960年代 スナオちゃんの千本 1960年代 小学生 千本で生まれ育つ。両親共に千本出身。 改良住宅 僕は改良事業が始まる前に東西町で生まれて、昭和 30年代の後半、小学校1年生 の時に(楽只(らくし) 市営住宅)3棟に入居しました。引っ越しの時のコトは今でも覚えています。小学校から大学まで千本の街の変化を見ながら育った感じですね。 (注釈) 1958(昭和 33)年、楽只市営住宅第1棟が完成し、千本における住環境改善事業がスタート。その後住宅 20棟 524戸、教育・保育・コミュニティ施設などを建設し四半世紀をかけて 80年代初頭に第1期が完成。2002〜2018((平成 14〜30)年にかけて第2期の改良住宅建て替え事業として、21 -24 棟が竣工している。また 2021 -2022(令和3 -4)年にかけて児童館・保育所・コミュニティセンターなどの施設が楽只小学校跡地(2019年閉校)へと移転し、現在第3のまちづくりが取組まれている。 (注釈終わり) 千本 小学生の頃、おばあさんがほとんど新品に近い花札を正月前ぐらいに持ってきてくれました。聞くと博打場となっている家に遊びに行っていて、そこではちょっとでも傷がいった花札は使えないとかで貰っていたようです。なので花札は買った覚えがありません。千本での博打場は五番町(千本通と中立売通の西南一帯、かっての花街)ほど本格的ではなかったようです。 祖父の家 父親の実家が東西町にあって、小遣いを毎日もらいに行ってました。おばあさんが待ってて上からほってくれる。この家の向かいに、母方のおばあさんの家もあってダブルでもらえるんですよ。4つ上の兄は5年生ぐらいになるともう「恥ずかしいし行かへん。もうてこい」ってお兄ちゃんの分も2人分もうてこないかん…。 公園 2段になってて北の方ではベイゴマ、ビー玉とか、南側ではいつも野球してたりね。夏は盆踊りに、近所の先輩たちがグループを作ってベンチャーズのコピーバンドやってました。公園のコトは「ニッシャブ(西薮)」と呼んでました。住宅地区改良事業って「現地改良主義」ってことで、この地域の中でしか事業完結させることしかできない。だからこの公園をタネ地にして南の半分残して改良住宅2棟を建ててスタートしました。千本の北側の東西町に住んでた人たちが施策の対象になって、次はその東西町の住宅を壊して事業が進んで行くことになるんです。 駄菓子屋 普通の民家で、ちょっと階段を上がって、表の一間にお菓子を置いてる感じ。ここ(家の近く)のお菓子屋さんは古いんですよ。 * 中学年とか高学年になってくる頃、よく行ってた駄菓子屋さんは「マサちゃん」。ちょっと南の方なんです。コーラとかスルメとかとにかくよう買いましたね。1本5円やったと思うんで、2つで 10円とかね。トウガラシのついたスルメが美味いんです。それをしゃぶりながらコーラを飲むのがサイコーでした。駄菓子屋に卵を持って「ベタ焼」(生地にキャベツやネギを乗せて焼いた京都のお好み焼き)を焼いてもらうのが土曜日のランチ。 銭湯 / 診療所 古い銭湯なんで浴槽は1つですね。風呂には友達と行きました。あまり頭洗わへん先輩がいて、そこのおばあちゃんがシャンプーかけて「頭洗ろてこい」って。この頃ってバスタオルなんか持ちません。石鹸、タオル、まぁ手拭いて言うてましたけど、手拭い1枚持って行くような感じですね。 * 2年生の時かな、ここ(銭湯)で遊んでたらひっくり返ってね、頭が割れてもうて。向かい(西側)に、依岡さんていう診療所があって、そこに行って縫うてもうたんですよ。今は地下道の東側の楽只診療所って息子さんがされてるんですけど、その時はお父さんが診てくれた。 (注釈) 明治後期にそれ以前の湯屋から共同浴場が設けられ、1922(大正 18)年に公衆浴場が竣工、1948(昭和 23)年に楽只浴場が開設された。1968(昭和 43)年、1983(昭和 58)年の移転を経て、2019(令和元)年に廃止される。 依岡楽只診療所は元々公衆浴場の向かい、千本通の西側にあった。現在は市営住宅9棟が建つ。スナオさんによれば、地下道は 70年代前半頃にできたのではとのことである。 (注釈終わり) 屋台 (診療所の)向かいにホルモンの天ぷら売ってる屋台があって、うちの親戚、父親の従兄弟がやってたんです。飴みたいな駄菓子も売ってて。いつもお金渡さんとツケで。おばあさんがお金出すんです。「ツケといてー」とか言うて。 * こういうコミュニティなんで、どこで会うてもおじいさんやおばあさんからお金がもらえるというかね。行き帰りで誰かに会うと、「おちかちゃん(父方の祖母)の孫やろ」とか「おしずちゃん(母方の祖母)の孫やなぁ」言うてお金をもらってました。 蓮生寺 / 正覚寺 法事のときにお供養(お供物)が出るというのが子どもにとっては、寺の魅力で。お勤めが終わる前に門が閉められて法事がはけた時に、寺の中にいる大人と子どもにお供養が配られるシステム。だから法事の最後あたりに子どもがだーっと本堂に入って来る。お供養はお菓子や現金でした。やんちゃなんは1回行って、2回目「二重もらい」するとバレて怒られる。コミュニティ狭いからわかってんのにね。「やったやろ、さっき」って言われて。 * 1976(昭和 51)年に、狭山の同盟休校いうのをこの地域でするんですけど、その時に小学校に、いわゆる地域の子どもたちだけで 100人いましたから。そっから 10年前、20年前いうたらもっと多かった。 (注釈) 1963(昭和 38)年に起きた狭山事件の裁判に抗議するため、 1976(昭和 51)年から 1984(昭和 59)年にかけて、児童や生徒が集団で休校に参加した。事件から 60年経つ 2023(令和5)年現在、第 3次再審請求中である。 (注釈終わり) テヤモン(店屋物(てんやもの ) 朝岡さんとこ。ホルモンやスジ(牛すじ)のおでん売ってはったんです。気ぃついたときは閉まってましたけど。主食にならへんような、うどんとか、お好み焼きとか焼きそばとか、「店屋物→てんやもん」…転じて「テヤモン」て言うんですけど、そういうお店がどこの部落でも多いですねぇ。崇(すう) 仁(じん) (京都駅の東側の一帯)行くとお好み焼き屋さんとか、ホルモンの天ぷら屋さんとかが多い。 トミヤ 駄菓子屋なんですけど、ベタ焼きみたいなんを売ってる。どっちかいうとお菓子が主体で、七輪の上に鉄板みたいなん置いて、そんなに大きくはないんですけどね。 かいど(街道) 千本通りの盲学校のちょうど向かい側、佛教大学との境の、一番千本通り側に住んでたんも、うちの親戚で山田っていう。母親は「かいどの姉さん」とか言うてたんですけど、「かいど」って街道なんですよ。鷹峯を(たかがみね) どーんと行って、京都の北の方通って、最終的に福井県小浜に行くんですよね。周山街道。だいたい蓮(れん) 台(だい) 野(の) 村は、街道の起点(「京七口」の「長坂口」)にあるんです。ここは生のホルモンを売るホルモン屋やってたんです。崇(すう) 仁(じん) に親戚の肉屋があったんで、ここのおばちゃんが、つぶしたてのホルモン、解体したての肉を買うてきて売ってた。 まる也(や) ラーメン屋さんですけど、もともとは駄菓子屋さんなんです。自分とこの道のところに、お好み焼きの鉄板みたいなんを常設で1台置いてはった。僕ら土曜日の昼とか給食ないんで、卵1個持っていくんです。「お好み焼きして」て言って、すると代が安くつくんです。卵なしやったら 30円ぐらい、卵ありやったら 50円くらいするんです。元々は料理はされてなかった。だいたい千本通りにあるお店屋さんてメインは駄菓子屋さんなんですよ。駄菓子屋さんが全部お店をしてたので、事業(住宅地区改良事業)が展開するときに、店舗付き住宅に入るんですけど、あんまり本格的な料理されてないんで、だから「まる也」さんなんかは、初期の頃は中華料理する料理人呼んできて学んで、あとはおっちゃんとおばちゃんがやると。よう夫婦喧嘩してて食器とか鍋に当たるんです。ちとワンマンなおっちゃんで。 アンドウ 東映の役者の安藤昇(のぼる) (1926〜2015)と同じ名前で。うちの父親が「アンドウ」さんとこよう知ってて。父親元々ずーっと日雇いやってたんですけど、(小学校の)管理用務員に採用されるんです。日雇いから月ぎめの給料になったんで、給料日になったら「アンドウ」に行ってチョコレート買うて帰ってきてくれる。部落の中にあるお菓子屋さんは安いんですけど、あまりパっとせえへんのですよ。でも「アンドウ」さんとこは、ちょっとこうパっとする洋菓子というか…。 木村さん 醤油とか味噌のバラ売りしてるんです。母親に言われて瓶持って、柄(ひしゃく) 、漏斗(じょうご) で醤油入れてくれたり。紙に味噌をおばちゃんが乗せるんですよ。けっこう匂いもきついし、油紙みたいな…染みてくる。 入江さん / テイちゃんとこ / ツヤちゃんとこ 入江さんて酒屋があって醤油とか売ってるんですけど、母親が「木村さんのテイちゃんとこで買うてきて」て言うて。おもしろそうなおばあちゃんがいるんです。入江さんの方は近代的で店構えもきれいやったんですけど、うちの母親はこっち(木村さん)行けって。 * おばちゃんの名前がついてるんですよ。荒木さんはツヤコさんとこで「ツヤちゃん、ツヤちゃん」て言うて。うどんとかお好み焼きとか天ぷらとか売ってて、千本の人たちがおかずをここで買う。すごい人気がありましたね。グラスに入れてくれるアイスコーヒーの味が絶品であの味は忘れられません。「喫茶店で出涸らしのコーヒーの粉をアレンジして作ってた」とかだったような。夏になるとかき氷をするんですよ。僕ら住宅の下でみんなで夕涼みしてると、年いった人が「金出したるし、饅頭買うてこい」て、饅頭て、かき氷を固めて新聞の上に置くんです。で、持って帰るんですよ。おばちゃん、サロメチールかサロンパス貼ってて、その手でかき氷握ったもんやから食べられへんかったこともありましたね、匂いがして…。 ちもと 千本さん酒屋さん、この頃醤油とか味噌なんかも一合売り。味噌は紙に乗せてもうて…。醤油、瓶持って行ってましたね。ここのおばあちゃんは「万吉」(本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』の主人公の名前)のおばあちゃんみたいな感じでね、いつも着物着てはるんです。「私が若いときは、和菓子屋がお菓子を持ってきて、それを『これ食べる、これ食べる』て言って選んで買ってもらってたんや」って後になって聞いた。千本(せんぼん) でも、この千本さんとこのおっちゃんが、楽只小学校の先生してたり、古くからあって、地域の人たちが「千本さん」って慕ってる、そういうお家でしたね。この頃、酒屋とか米屋とかは、許可証がいりましたし、一定の地域での役割とか、財産があるとか、そんな人たちしかできひんかったような。この頃の酒屋さんてどっちかいうと立ち飲みですね。千本もそうですけど、いま東京なんか下町では乾きもんだけ置いといて、ちょっと飲めるスタンドみたいなのが復活してますけど、この千本さんも入江さんとこも、そういう酒屋さんでしたね。 * 母方のおばあちゃんは、おじいちゃんと離婚して日雇いに行ってたんですね。一合瓶みたいなんが当時あったんですよ。カップと違って下が膨らんでる瓶なんです。それを毎日かなぁ、おばあちゃんとこにお金もらいにいったら、「買うてきて」て言われるんですよ。この千本さんとこによく買いに行きましたね。 米屋 入江さんとこの1、2、3軒隣、南梅吉(1877〜1947)、全国水平社の初代の委員長の家なんですけど、この南さんと入江さんとこに挟まれてるとこは米屋と聞いてました。高いんじゃなくて逆。 (注釈) 全国水平社は、1922(大正 11)年、日本で 2番目に結成された全国規模の部落解放運動団体。各地に支部が結成される。千本水平社の結成は翌 1923(大正 12)年。スナオさんの祖父も創立メンバーだったとのことである。 (注釈終わり) 桜湯 藤井大丸の通り…ずっと上がっていって新京極と寺町京極の間にあるお風呂屋さんなんです。間の細い道の北っかわにある。昔から蒸し風呂っていうと桜湯が有名で、僕ら高校のときも、そのへんの銭湯閉まってたら桜湯にバイクで行ってましたね。70年代の前半です。 * おばあさんが「大丸連れてったるし、おもちゃ買うたるし…」て、桜湯に連れていかれる。バスとちごうて電車(市電)で行ってたと思います。おばあさんはそんなかで蒸し風呂に入るんですね。うちの母親にあとで聞くと「おもちゃ買うたる、って言いながら、おばあちゃんなかなか電車とかバスに乗れへんので」って。おばあさんの頃は千本北大路から、円町に職業安定所、いまのハローワーク、どっちかいうたら西成の安定所(あいりん労働公共職業安定所)みたいな感じで、仕事ない人がそこ行って、仕事があったら行きますし、なかったらアブレいうて、いくらか貰って帰る、そういうのが円町にあったんですね。おばあさんは千北(千本北大路)から円町まではルーティーンやから行ける、四条は行けんことはないけども、非常時のために僕を担保する、母親はそういう感じで言ってましたね。僕は小学校1、2年生ぐらいでした。 楽只(らくし)小学校 母親も父親も小学校2年生ぐらいまでしか行ってませんが、字の読み書きはできましたし、父親は僕なんかよりずっときれいに書いてましたね。ただ、僕と同級生の親の中で、読み書きができない人は普通にいはりましたし、その頃は在日コリアンの家がそこそこありました。僕の同級生にも。当時被差別部落の子どもって、クラスの半分占めるんですね。その半分のさらに三分の一ぐらいは在日コリアンの友達なんですよ。そこの親は日本語はしゃべれへん。しゃべれても「あ、在日の人やな」ってわかるような日本語。このへんのおかず屋さん来ても、僕らは「朝鮮のおばちゃん」とか、そんな言い方しましたけど。そういう人たちがたくさんいて、異文化コミュニティっていうかね、実際に友達がいて、いろんなことを学びましたしね。改良事業がすすむことによって、京都の場合は、「属地属人を徹底する」ていう言い方をするんですけど、やっぱり結果として在日コリアンの人たちが千本から出て行かざるを得ない状況になったのはとても残念です。 * 在日の同級生、梁川くんとか。金本さんとかね、金山くん。金さん、池田くん。ほんまにたくさん地域の中にいはりましたし、あと、南、国本さんとこもそうやし。いろんな友達がいてにぎやかで面白かったですね。 * 小学校1年生2年生ぐらいまでは、部落の子どもたちを対象にした補習学習に在日の子らも来てたんですよ。それが、いわゆる同和行政が進んでいけばいくほど、在日の子が来にくくなる。結果的にそういうことになっていきましたね。ただ、部落に住んでる友達は「自分ら朝鮮人やから」というような感じで折り合いつけてる同級生が多かったように思います。 (注釈) 楽只小学校は、1867(慶応3)年の私塾を基に 1873(明治6)年に蓮台野小学校として開校する。 1885(明治 18)年、楽只小学校に改称。2019(平成 31)年に紫野小学校と統合する形で閉校した。「属地属人」は、改良事業の対象者を同和地区の住民であるかどうかとする考え方。スナオさんの「日常記憶地図」を記入した地図(昭和 26年 京都楽只住宅地図)は、住民の名前だけではなく仕事や親戚関係、国籍などが詳細に記載されていた。 戦後、楽只小学校の教員が手弁当で地区内の長期欠席や不就学の子どものために補習を行って いた。楽只など市内5校の補習学級は 1954(昭和 29)年に開設される。 教科書は元々有償であったが、 1961(昭和 36)年、高知の被差別部落から無償化運動が起こる。その後運動は全国に広がり、 1964 -1969(昭和 39 -44)年にかけて、全ての義務教育の児童・生徒の教科書無償化が実現した。 (注釈終わり) 大宮通(商店街)| 高校生 新大宮の方がお店いっぱいあったんです。旧大宮の方はねぇ、古いんですけど、「サカイ」で冷麺食べたりね。お風呂は紫野温泉(2023年現在も営業中)いうのがあったり。僕らが 10代の頃はブランドは「 VAN」(1960年代に流行したアイビーファッション)とかが流行ったんですけども、そのお店があったりとか。イタリアンのお店もありましたよね、「フクムラ」ていうところが。パチンコ屋もあったんで行きました。いまセブン -イレブン(北大路大宮店)になってますけどね。「ホームラン」とかね。千本通からやったら盲学校の南から紫野高校通って大徳寺抜けたらすぐですから。 千本北大路 貴之(たかゆき)  千本通りの東側に、コロッケとか、お肉屋さん……そこでコロッケ食べた。 スナオ あそこのコロッケ屋は、比較的新しいですよね。そのコロッケ屋さんを、もうちょっと上がった西側、向かい側に「チイコ」(店のお姉さんの名前)っていう野菜とか売ってるお店あったんご存知でした? あそこは古かったと思う。 貴之  そこは知らんですね。 スナオ その上に散髪屋さんがありました。盲学校のちょうど南側 貴之  中学部から千北(千本北大路)の方の校舎(花ノ坊校舎)で、高等部ぐらいからは、クラブ活動で盲人野球をやっていて、小学部(大徳寺校舎)の下の方にある大きなグラウンド(紫野高校のグラウンドと隣接)で練習をするので、千本通を行き来することが増えてきました。コロッケを食べたりしたのは練習の帰りでしたね。 スナオ コロッケ屋さんの隣に「珈琲舎」いうて… 貴之  あー、それも知ってる。スナオ美味しいコーヒー店、喫茶店ですわ。 貴之  高等部ぐらいだったと思うけど、盲学校の先生が連れて行ってくれたのが「珈琲舎」でした。 スナオ 「珈琲舎」をもうちょっと下がってくると、「ぽん太」というおうどん屋さんがあったんですよね。ご存知ない? 貴之  そのうどん屋さんは知らない。麺類で言ったら、西側の千本北大路に近いとこにラーメン屋さん「まる也(や) 」。よく行ってました スナオ 「まる也」もう千本通りの中です。千本北大路の北西角の。おっちゃんとおばちゃんがよう喧嘩してるんですよ 貴之  あー。あの太ってそうなおっちゃん。親切にしてくれてましてねぇ。 70年代前半には、盲学校でも学生運動があったんです。「卒業式粉砕」とかやってました。遅くまで学校に残ってたりして、帰りにみんなでラーメンを食べに行って、10人ぐらいでカウンターを占領してました。なぜか食後に饅頭くれたりしてたなぁ。 スナオ その頃は、この(市営住宅の)7棟とか建ってますから、一番端に「まる也」があって、その北側に本屋さんとかがあったん覚えてはりますか? 貴之  あー、それは知らん。 スナオ お好み屋さんとかですね、おうどん屋さんとか。うちの親戚のホルモン売ってたところが入って、生のホルモンを売ってたのが千本北大路の交差点の北西角ですね。 貴之  喫茶店ありましたね。 スナオ はい。「パープル」 貴之  「パープル」もよく行ってた。高校時代の話ですかね スナオ 千北(千本北大路)の東側も行かれてました? 「敦煌」とかね、ラーメン屋さんで 貴之  ああ、ありましたね。あとうどん屋さんが北大路通に面してて「やよい」? スナオ はい。「やよい」は古い。昭和 30年代から 40年代ちゃうかな。向かいに「高雄屋」いうのがありましたね。北大路通をはさんで、そこもうどん屋さんなんですけどね。 貴之  中学生になると、まだ給食がなかったんで、通学してる生徒はみなそのうどん屋さん「やよい」に行って昼ごはんを食べるか、弁当。帰りに食べて帰るとか。そういう感じで「やよい」とかは盲学校の帰りに行ってましたね。「アンドウ」さんてお菓子屋さんも。 スナオ 千本北(交差点)の南の、東側ですね。いまの自転車屋さんになってるところです。 貴之  この店の人は盲学校の生徒に親切やったんで。 (注釈) 当時の盲学校は、千本北大路の南西の花ノ坊町に、中学部、高等部、理療科などがあり、北東の大徳寺町に幼稚部、小学部があった。 貴之さんによると、当時の盲学校では授業時間に散歩や、珈琲を飲みに(時には車で)連れて行ってくれるような先生がいたとのことである。貴之さんの高校時代は 1970年前後であり、 1960〜1970年代には多くの喫茶店が生まれた。1972年には名物喫茶店「ほんやら洞」も開店している。 盲学校は、理療科など年上の人たちと一緒だったこともあり、学生運動が行われていた。当時出てきた「知的障害など重複障害の人の学級を分ける」という方針への反対運動をしていた。また学校周辺でデモもやっていたとのことである。同時に、文化祭などの行事への自治への機運も高まった時期であった。 (注釈終わり)